聖書研究
— 万人祭司・万人予言者・万人王(第61回) —
野澤 睦雄
・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)
3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.1 新約の祭司(つづき)
祭司は神と人との間に立つ中保者であって、神に対する関係と人に対する関係、その両方に中保の役がつとまらなければならないと述べました。そしてまず人との関係のために兄弟と同じになる必要を取り上げました。
次に、祭司の神との中保者としてもっていなければならないことを考察しましょう。これに関連するヘブル人への手紙の記事にはイエスの祭司の職務と関連して以下のことが記されています。
イエスは、
- 罪を犯されなかった
- 父なる神が大祭司に任命された
- 受けられた苦しみによって従順を学び完全なものとせられた
その結果として、従うすべての人にとこしえの救いを与える大祭司となった - 神の家に忠実であられた
- 私たちの先駆けとして大祭司となり、幕の内側に入られた。この幕は聖所と至聖所との間の隔ての垂れ幕をさしています。
最期の部分の、「イエスが先駆け」であるということは、私たちがイエスに続くのであることを示しています。私たちがイエスに続くということは、イエスについて記されていることに似たところ通り、イエスに似た者とされることを意味します。私たちがイエスに似たものとなることを求められているということは、キリスト教の専門家たちのあいだでは当然とされ、しばしば牧師の説教に語られます。
- 罪を犯さないということについて
イエスについて、ヘブル人への手紙の記者は次のように主張します。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル 4:15)
<罪は犯されませんでした>ということを、私は人間であってイエスではないから、私には当てはまらないと考えておられませんか? 罪が神の前にどのようなものであるか分かるならば、神との関係において中保の役が務まるためには、イエスと同じように<罪を犯さない>ことが必要なのです。
ヨハネはこう述べています。
「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。」(I ヨハネ 3:3-10)
罪は悪魔の仕業であって、神のみこころを損ない、神に敵対し、神の業を破壊することです。罪を行いながら、神に対する祭司、中保者がつとまるはずがありません。私たち人間は、かつては罪人であり、罪の中に生きていました。しかし、イエス・キリストの十字架の死による贖いによって、罪の赦しと新生の命を与えられました。イエスと共に死に、イエスと共に生きる者とされた今は罪を犯してはならないのです。
私たちが罪を犯してはならないということについて、イエスのことばが参考になります。イエスは姦淫の現場で捕らえられた女にこう言われました、
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
(ヨハネ 8:11)
また、ベテスダの池の側で寝ていた38年間病気であった人には、
「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(ヨハネ 5:14)と。
中保者になるということは、単に罪を犯さないすなわち神に対して敵対者ではないというだけでは務まりません。
今回はその理由を例話を用いて説明しましょう。 ・・教会のある兄弟が失業し、職探しをしていました。彼は教員の免許を持っています。私の知り合いの方にミッションスクールの理事長がいて、その学園で教員を募集していました。その職を探していた兄弟は、募集要項の求人対象となる条件からちょっとだけはずれていました。私はその理事長に彼を採用して貰いたいと頼みにいきました。募集要項は事務の人が起案したものをその理事長が決済するのですから、キリスト者の教員が欲しいから、採用してくれと理事長が言えば通る話です。しかし、その方は動いてくれませんでした。
その方と私との間柄は、私の方が世話になった関係で、いつでも電話をかけ、訪問はできますが、その時点では年賀状一本だけやりとりする状況となっていました。ですから、事務方に理事長の方が頭を下げてでも決めたことを曲げるために奔走して下さるだけの重さが私にはなかったのです。
この話を念頭において、私たちと神との間柄を考えましょう。私たちは、いつでも神の前に出て祈ることが許されています。確かに神は私たちに会って下さるし、祈りを聞いてくださいます。しかし、神があなたの願いだからと奔走して下さる関係を獲得しているでしょうか。私たちと神との関係が、例話の私とその理事長との関係に似た程度になっていないでしょうか。 - 神による祭司、中保者としての任命について
上記の例話の状況を打開する決定的な一事は、私たちが神から祭司、中保者として任命されることです。イエスについてこう記されています。
「まただれでも、この名誉(祭司職)は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」(5:4-6)
イエスは凡ての人の祭司ですが、私たちはそうではありません。神からその時その時、中保しなければならない人を委ねられるのです。
これについては、ヨブ記の最後に記されている事例が参考になります。
「さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのために全焼のいけにえをささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。あなたがたはわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったが。」テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルが行って、主の彼らに命じたようにすると、主はヨブの祈りを受け入れられた。」(ヨブ記 42:7-9)
神は、ヨブの三人の友人たちをお怒りになりましたが、ヨブが中保者になることを条件に赦すと言われました。そして、もちろんヨブは喜んでその役を果たしました。
神はそれを喜ばれて、
「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。」(ヨブ記 42:10)
神がヨブを祝福されたのは、<ヨブが祭司の役を務めたとき>であることを記憶していただきたいと思います。ヨブは多くの人の祭司ではなく、この三人の友人たちの祭司でした。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)
(仙台聖泉キリスト教会員)