同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第64回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.1 新約の祭司(つづき)

 旧約の祭司の務めがなされる最も重要な場所は幕屋で、後には神殿でした。それらは「聖所」と呼ばれそのことばどおり神の前に聖いところでありました。新約の祭司が務める重要な場も神殿であって、それについては、ヘブル人への手紙9章に論じられています。
「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、・
・・」(ヘブル 9:1-4)
「この幕屋はその当時のための比喩です。」(ヘブル 9:9) ここで「比喩」と訳されている語に、文語訳聖書では「たとえ」と振り仮名がつけられています。つまり、似ている他のものを事例として用いて真の意味を教えようとしているということです。ここに示されていることは、旧約の幕屋はやがて到来する「真の幕屋」を示している例示に過ぎず、それが示しているその真の幕屋とはイエス・キリストにある幕屋、神殿です。
聖書にはこの新約の幕屋、神殿について二つのことが述べられています。
 その一つは「教会」、もうひとつは、「信者個人」であって、まず教会については以下の聖書箇所から明らかです。
「イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」・・・イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」(ヨハネ 2:19-21)
「御子はそのからだである教会のかしらです。」(コロサイ 1:18)
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」エペソ 1:23)
イエスの語られたことばは、三日で建てるということですから、直接的にはイエスご自身の復活の体を意味していることでしょうが、イエスの体が神殿であり、教会がイエスの体であるのですから、教会は神殿であることをも意味します。
 信者個人が神殿、神の宮であることは、以下の聖句から明らかです。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(I コリント 3:16)コリント人への手紙でパウロは、信者の集団である教会についても論じていますが、個人についてもこれをあてはめ、あなたがた個人は神の宮なのだから、それを潔く保たなければならないといっています。
「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(I コリント 3:17)
 以上のことから、イエスの体としての教会という神殿、そしてその教会の構成員である信者一人ひとりという個人の神殿、と祭司の務めの関係を考察する必要があります。
 旧約の祭司の項で述べたように、旧約の幕屋、神殿が新約の神殿を示しているのです。幕屋を例にとって、振り返って見ましょう。

・外側・・ジュゴンの皮、その下に雄羊の皮
・建屋・・アカシヤ材(ソロモンの神殿ではレバノン杉)
・内装・・青、紫、緋色の綾織りの亜麻布

 私たちの多くはジュゴンに触れたことがないので、どのようなものかよく分かっていないことでしょうが、私たちに割合身近であるアザラシやイルカなどの海の動物の仲間ですから見当がつきます。幕屋の外見はたいして見栄えのするものではありません。しかし、一歩中に入ると、色彩豊かな内装と、金製の調度品で輝いていました。
 キリストが教会を建てあげることについてこう述べられています。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ 5:25-27)
 旧約の聖所である幕屋、神殿が神の前に聖なるところであり、その内側が美しく飾られていたように、新約の聖所である教会、信者の内側は、聖く、美しいものでなければならないことは当然です。しかし、新約の聖さ、美しさは、旧約の時代とは異なる、霊的なものです。キリストご自身が私たちを、幕屋のように、外見ではなくその内側を美しく飾られた建物とされるのですが、聖書全体の主張は、神の業が実現するためには、人が神のみこころに従って行動することが必要であって、もしそうしなければその神の業は実現しないということです。もちろんそれは信仰によって実現するのですが、その信仰を行いによってあらわさなければなりません。「彼(アブラハム)の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、・・」(ヤコブ 2:22)と記されている通りです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

Valid XHTML 1.0 Strict