同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

神との真の関係

石井 和幸

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」 (ヘブル11:24-26)

 ここ一ヶ月位でしょうか、私は2歳の娘と風呂に入るために、ちょっとした工夫をしました。夕食後、私は娘に「お父さんとお風呂入ろう!」と声をかけます。 すると大抵、「やだ、お風呂はいんない。」と答えが返ってきます。 娘は、髪を洗う一連のことが嫌なので、拒否をするのです。 「ふ〜ん、そうか。わかった。」 私はそう答え、娘にどこへ行くかを告げずに、浴室へ向かいます。そして、私だけ湯槽につかります。 すると、間もなく彼女は浴室のドアを自分で開け、イスに登って私のそばに来ます。 「お風呂入ってるの?」彼女はそう言って私にちょっかいを出してきます。 「真実もお風呂入るか?」 「うん! きゅーってして!(服を脱がせてほしいとの意味)」 彼女は、つい数分前拒否をしたことを忘れて、 髪を洗う辛さを通り越して私と風呂に入り、徹底的に遊びます。 特に、オモチャのじょうろで私の頭にお湯をかけ、ごしごしするのが好きなので、私も「あんた、自分がそれやられると嫌なくせに、それは違うぞ!」 と言ってお湯をかけて反撃します。そして、頭を含め全身を洗います。・・・このように、娘との入浴は、私にとっても楽しい時間になっています。そうしているうちに、最初から拒否せずにお風呂に入る日が増えてきました。 また、私が仕事で遅くなり、先に妻と入浴を済ませているときも、私が帰宅すると、「お父さん、お風呂入ろう!」という時もあります。 帰宅すると、「おとうさ〜ん!」と言って駆け寄ってくる娘の姿を見るたびに、小さな子どもが親に対して抱く気持ち、本質を実感しています。
 私は中学生・高校生のころ、教会の先生や先輩に、「自分の主張ややり方はまず脇に置いて、黙って従ってほしい。」とよく言われました。私は、 物事を行うときは誰がリーダーであろうが、自分が最善と思う方法を押し通すべきであると考えていました。 ですから教会の先生や先輩に質問をしました。「もしリーダーが間違った方法をとってしまったら、どうするのですか?」 それに対し、先生・先輩は、「間違った方法をとって失敗したら、あなたはその人と一緒に泣けばいいのです。そして成功したら、一緒に喜ぶ。そうしているうちに、あなたは友を得ることになります。」と答えてくださいました。 けれども、長い間私は納得せず、自己流を押し通し、傲慢な姿を表す自分でありました。 (他の信徒とは一味違う、自分のような風変わりな信徒が居てもいいではないか) と思ったこともしばしばでした。 主なる神は、そんな私に、教会に仕えること、また結婚への取り組みを通して、従順であることの訓練を課して下さいました。 牧師・先生方との取り組みを通して得たことは、「神は真実なお方である」ということです。ですから、まず自分の個性を主張する前に、幼い子どものように、素直に神の 腕の中に飛び込むことが大事であることがわかりました。
 神への従順は、厳しさを伴います。けれども、神との平和、神の愛が注がれているので、恐れることはありません。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。・・・そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1,3-5)
 そして、従順の中に生きることによって、神が個性、賜物を用いてくださることも体験しました。 「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」 (ヤコブ4:10)
 先月、私たちの教会で、一人の若い兄弟が新生・救いの恵みを受け、信仰告白が成されました。 神と愛する人を欺いた罪の明確な悔い改め、そして献身が表明され、クリスチャン2世である親への感謝・・・「父親がいたからこそ、私は救われることができました。」と告白されていました。 クリスチャンホームに生まれたが故に、(なぜこんなことをしなければならないのか・・・)と思うこともあったとのことでしたが、彼は主なる神の腕におちいり、信仰の継承をしていくことを強く表明しました。教会に大きな喜びが与えられ、主に感謝をしました。
 私も彼と同じクリスチャン3世です。 三代目の使命・・・それは神の前に従順に生きることの幸いを、豊かに次の世代へプレゼンテーションしていくこと。代を重ねるとはそういうことであると示されています。 ただ口で伝えても、「だからなに?」と返されるだけです。 子どもが親を通して「神は真実である」ことを悟ることが出来るように、 まず、私たちが主なる神の腕の中にあること、神を愛する・・・神は何を喜びとされるかを捉え続け、行うこと。それは与えられた隣人を愛していくことであることを覚えつつ、イエス・キリストの十字架を夫婦で背負うものでありたく取り組んでおります。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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