同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う —

「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」(エレミヤ書 6:14)

 表題のようなことを掲げると、お叱りを受けるかも知れません。確かにある一部のの人々、一部の教会は活気に溢れていることでしょう。しかし、日本の教会の全体像を考えてみるとき、キリスト者の人口に対する比率が長く1%未満に停滞していることが示しているように、沈滞の空気が流れているのではないでしょうか。
 だからこそ、その打開を考える人々のうちのある方々は、お隣の韓国では教会が活気に満ちているらしい、行ってその様子を学ばせて頂き、その勢いを貰ってこようと考えます。ある人々は、一教会、一教団だけではだめだから、多くの教会が集まって、著名な説教者を呼んで集会を開いて燃やされようとします。ある人々は、今回の地震と津波、原発事故の被災者のために働くなどの例が示しているように、奉仕に忙しく体を動かして、主のために働いたと満足を得ようとします。
 結果はどうでしょうか。韓国と同じように燃えた教会がたくさん生まれたニュースはいっこうに伝わってきません。大きな集会も、花火のようで、集会が終わるともとの闇夜が残ります。奉仕に勤しむひとびともやがてその働きが終わるとやっぱり元通りで、自分は何も変わっていないことを知ることでしょう。
 これらの諸方策は、原因を追及していません。原因を正しく把握しなかったら、よい対策はとれません。では、その原因は一体何なのでしょうか。冒頭に掲げた聖句にそのヒントがあります。文語訳聖書では「手軽に」というところが「浅く」となっていて、その意味をよく表現していると思われます。彼らはわたしの民の傷を「上辺だけ」癒し、平安がないのに「平安だ、平安だ」といっているということであって、傷口は癒えているように見えても、中に膿がたまっている傷を連想するといいでしょう。これをエレミヤの時のユダの預言者、律法学者、祭司たちのことだと思って、自分のことと思わないで通り過ぎていないでしょうか。本人にも、その方が導く人々にも、救われてはいても平安がなさそうに見える事例をたくさん目にしました。
 イエスは「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と言われました。このキリストの平和はこころの内奥まで癒されたとき心の奥底に宿るものです。それを得た人は、心の平和が燃える炎である不思議を経験します。皆さんはイエスの平安を得ておられるでしょうか。表題の問いの答えを見出すために探求すべき第一の課題がここにあります。

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