同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

決めちゃえばいい

石井 和幸

「こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。」
(Ⅰ歴代誌 29:9)
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」 (Ⅰペテロ 5:6)

 10月9日の夜から10日にかけて、キリスト者学生会(KGK)東北地区OBの集いが、山形で開催されました。毎年1回、私は妻と子どもを連れてこの集会に参加していましたが、今年は妻が出産を控えておりました。私は、いろいろな望みを抱きつつ、3歳になったばかりの娘を連れて、2人で参加することにしました。 以前、妻がつわりで入院した際、私と2人で留守番をする経験があったので、一晩母親抜きで過ごすことに関しては心配する必要はありませんでしたが、2人だけの1泊旅行は初めてだったので、どうしていこうか、どのような結果になるのか、期待と不安を抱きつつ山形に向かいました。
 山形までの車中、娘はぐっすりと寝ていました。そして、蔵王のペンションに着き、夕食を済ませると、あとはもう大はしゃぎ・・・ 家族風呂に2人で入って、その後はペンションにある将棋やオセロで私と遊んだり、ひとりで漫画を読んでいたり・・・ 「 もうねんねの時間だよ」 「寝なさい」と言っても一向に寝ようとせず、遊んでいます。私が先にベットに入って目を閉じても同じです。挙げ句のはてに、「眠くないどす。ホントはおうちに帰りたいのワタシ・・・」 と言い出しました。教会のキャンプや聖会であれば、強制してでも寝かせるのですが、(今回はKGKだし・・・親である自分の希望だけで連れてきたから、ゴリ押しできないよな・・・)と迷っているうちに日付が変わり、(さすがにこれはまずいぞ・・・)と思いつつ、娘に「明日、広い公園でお友達と遊べなくなっちゃうぞ。抱っこしてあげるからもう寝よう。ライト消すぞ!」 そういって卓上の小さなライトを消しました。 すると娘は、「ふぇーん」と泣いた後、すぐに自分で枕と布団を寝やすいようにセットし、5分もしないうちに熟睡しました。 (最初からこうすればよかった・・・)と私は反省をしました。次の日、娘はまともに目を開けて過ごすことが出来ず、会場にいってもただポカーンと周りを見ているだけで、(父親が)楽しみにしていた芋煮が出来上がる前に、早退する結果になりました。
 10月21日、たいへん感謝なことに、私たちの家庭に第二子の長男が産まれました。そして、また娘と2人だけで寝る生活が始まりました。(寝たいのはやまやまだけど)「だって、眠くないんだもん」目をこすりつつ泣きそうな声で訴える娘に、 私は言いました。「この前山形行ったとき、公園で遊べなかったじゃないか。シーソーがあったのに、お友達もたくさんいたのに、 おいしいものも食べずに帰ってきただろう。覚えてる?」そうすると娘は「おぼえてる・・・」と涙ぐんで答え、眠りにつきました。
 10年前、私たちの教会は創立50周年を迎え、記念のための企画が多く成されました。 私は当時、教会のなかで多くの奉仕に携わっていました。 いくつかのプロジェクトチームが結成されて、私も忙しくなるな・・・と思っていましたが、私はどのチームからも声がかからずに、記念集会、行事を終えました。 私は、教会全員で50周年を感謝している傍ら(自分はいったい何をしたのだろう、どんな感謝を持っていたのだろう。結局、自分は教会の50周年に関して、その席に座ってはいたけれども、関わることがちっとも出来なかった・・・) この時私は、この一連の記念行事は、自ら進んで行う『任意』 によって支えられたことを悟りました。
 実は、今も教会は多くの尊い『任意』の働きによって建てあげられています。 信徒の訓練・成長のために『いいから黙って従ってほしい』と勧められる時もありますが、牧師は基本的に、(頼まれ仕事では仕えてほしくない。 自ら進んで仕えてほしい・・・)と思いつつ日夜祈り、講壇からメッセージを取り次いでいるのです。私は、 何も出来なかった記念行事から数年かけて、そのことを神から教えられました。 自分は、何か事を行おうとするときに計算をします。 このことを行うとどれくらい疲れるか。その労に合った報酬は見込めるのか。3歳になったばかりの娘でさえそういう計算をします。そして、『自由』と『任意』のなかに立たされたとき(もちろん、娘はまだまだ親の領域の中にいますが)、選択をしていきます。私は今回、娘の発言に揺るがされました。(いっそのこと娘の思うとおりにさせてあげればいい・・・)と思ったりもしました。けれども、本当に必要なことを子どもに示すことが、本当の愛であることを改めて気づかされました。
 教会生活においては、牧師先生方が自分の目の前で動いているなら、自分は席にただ座っているのではなく、自分もその労を担うことに、決めちゃえばいい・・・そうすれば、子どもはいちいち迷わないということを示されています。 私たちの教会の山本 嘉納牧師は決して信徒に対して強要をしません。 但し、自ら進んで神に近づく信徒に対し、全身全霊をもって牧会をしてくださいます。先代の山本 光明牧師もそうであったと聞いています。なぜここまで教会が建てあげられてきたのか・・・それは自ら進んで献げ、仕えた先輩方、信徒が多く与えられたからです。
 親が、子に対して「(ホントはあなたの思い通りにさせてあげたいけど)仕方のないことですよ」と教えるのと、「それがあなたにとって幸いなことですよ」と教えるのとでは、全然意味が違ってきます。 私の娘も、ポカーンとしているようで、実は、山形の公園にてんとう虫のシーソーがあったこと、たくさんお友達や赤ちゃんも来ていたこと、 温泉のお風呂が楽しく、みんなで食べたペンションの夕食がおいしかったこと・・・ちゃんと覚えています。最近は、今日の教会学校で何をしたか、報告できるようになりました。
 信仰を継承して欲しい・・・そう願うなら、まず親である私と妻が、自ら進んで神と人に仕えること。第二子が与えられた今、あふれる感謝と新たな目標、決意をもって歩みだすことができ、主なる神に感謝しております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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