同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 教会学校に考えさせられること —

森田 心

「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(ヨハネ 4:36)

 今年も教会学校の教師をの務めをさせて頂き、2ヶ月を残すところまで生徒達と学びをしてきました。
 ある時、山本嘉納先生が教会学校の教師の務めについて語って下さった時がありました。今から10年以上も前のことだったと思いますが、言われた事を要約すると、礼拝のメッセージに結び付く学びであって欲しいということでした。それは単に連講がなされている聖書の所を教会学校でも取り上げて補足する学びをするようなことではなく、聖書全体の基礎となる部分を学ぶことはもちろんですが、それ以上にメッセージによって生きていくことの大切さと、その飢え渇きの心を彼らの中に芽生えさせるような学びの時をもっていくことの必要を願われていることでした。
 いつもそのことを忘れないように、礼拝の前の大切な時間の中で、心が整えられて礼拝のメッセージを聞くことが出来るようにと願いつつ務めに立ってきました。
 今年、その中で高校科の学びの中で生徒から、聖書の御言葉を正しく理解し、捉えていきたいという意識が起こり始めました。その中で共にこのクラスを担当している石井ミワ姉は、その疑問を聖書を学ぶ会の集会の中で嘉納先生に質問してみるように勧めました。またある生徒は、今の自分の教会に対する取り組みの率直な心の内を語っており、礼拝のメッセージのわからなかった所を聞く者も出てきました。嘉納先生はそれらの質問に対して答えを教え導くのではなく、歩み出す過程の中に大切な営みがあること、ほんのささいな事と思われるような所に大切なカギがあることなどを語っておられました。彼らがそのことを信じ、握りしめて歩み出すならば、その先の成長に大きな違いが出てくるように思います。ですからその大切さを感じるが故に、教会学校の学びも一つ一つの集会も結び合いながら、礼拝で語られる一つのメッセージに生きる教会であることを切に願わしていただくと共に、教会に与えられている愛する若い方々が、まことのいのちを得て立っていくことが出来るように、私もこの務めの大切さを感じ、取り組み続けていきたいと願っています。
 現在イエス・キリストの御降誕のお祝いの為に、例年通り劇を通してそれをあらわし献げるために取り組みがはじまっております。良き心からの献げ物が出来るよう、この残された今年の歩みも喜びと感謝をもって締めくくりが出来ることを望んでおります。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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