同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

誕生日を迎えて・・・

石井 和幸

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5)

 私が勤める会社にて、カーナビ付きの社用車が1台増えました。カーナビの良いところは、目的地を探すための時間を多く費やさなくて済む点と、「予定到着時刻」が表示される点にあると思います。最近、私が社用車を使って外回りする際は、たとえ通い慣れた客先や現場に向かう場合でも、「予定到着時刻」を常に把握したいがためにカーナビを作動させることが増えました。カーナビを作動させると、特に走り慣れているはずの仙台で、私が考えているルートと全く別の道を案内されることがよくあります。(自分は仙台生まれで、ずっと仙台で営業の仕事をしてきたのだから、仙台の道は知り尽くしている)と自負をする私にとって、カーナビが自分の考えとは違う道を案内する瞬間、私は(ええっ!)と思ってしまいますが、「予定到着時刻」の情報を当てにしたいがために、カーナビの示す通りの道を走ると、自分が思い描いていた道よりも割とスムーズに目的地に到達できてしまい、自分がもっている「自負」がそんな大した価値ではないことに気づかされることが多々ありました。そして「自分は仙台の道を知り尽くしている!」と決めつけないで、聞くことも大事だと感じました。 
 2月13日は私の誕生日でありました。その一週間ほど前でしょうか、家内から「誕生会の夕食には何が食べたいか?」と問われ、私は、「ラムとホルモンの焼き肉と、ラーメンサラダ。前々から考えていたんだ」とリクエストしました。家内は「それは誕生日のお祝いメニューらしくない」という理由から、リクエストを却下しました。実際、誕生日のお祝いで家内が用意したものは、私がリクエストしたメニューよりもはるかに私を喜ばせ、感動させるものでした。  私の40歳の誕生日を家族全員が揃って祝ってくれたこと、それぞれが心を尽くして用意してくれたプレゼントにも私は感動を覚え、主に感謝した1日となりました。その家族の真実に接し、自分が誕生日の一週間前、「家族みんなで楽しめるように前から考えていた」と口にしつつ、実際は自分本位にしか考えていなかったことを恥ずかしく思いました。
 先日語られた礼拝のメッセージでは次の御言葉が語られました。
 「あなたは、自分では富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示3:17、18)
 「40歳」というと一般的には「不惑」と呼ばれ、自らの思いを迷わずに具現化する年齢のように思われますが、しかし、記念のとき、節目の月に、自らの思いで突き進む怖さ、見えると言っていながら何も見えていない自らの愚かしさを教えられました。神の御手に陥るとはどういうことなのか、隣人と生きるということはどういうことなのか、考えされられる場面を多く与えられた月でありました。そして、見えないと知って目薬を買ったら毎日処方箋に忠実に従ってつけるように、主からの忠告に日々小さなことでも聞き従うことができるような者でありたいと願いました。
 自らの歩みを見ていてくださる先生方に、聞き、従いつつ、謙って歩を進める者でありたいと思います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)