同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

家風を築く

石井 和幸

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」ミカ6:8

 私が勤める鉄工場に、Hさんという職人がいます。Hさんは、主にK社という得意先から注文がくる、食品工場向けの機器製作に携わり、現場工事等の仕事をしています。いつも厳しいK社の社長に叱咤激励されながら、彼を中心にK社の仕事をするようになって9月で丸4年が経とうとしています。
 当初、Hさんは「K社の社長が考えることなんかちっとも理解できません!」と私に愚痴をこぼし、K社の社長が指摘することを「不条理だ」と言い、それでも、(仕事だから仕方がない)と割り切って踏みとどまって来ました。周囲から、「もうK社と取引をしないで、もっと別な、付き合い易い客先の仕事をしたらいいのでは?」という意見を言われたときもありました。しかし、私はHさんと、「K社相手に通用しないなら、他の客先の仕事をしたとしても通用しないだろう」と話し合い、日々の仕事をいっしょに反省して、とにかく、「K社の社長が望んでいること、真意をつかみ続けるまでもう少し、一緒にK社の仕事に取り組みましょう」と励ましあって、現在に至りました。先日、K社ではなく、私が営業して受注した食品工場の現場工事を、Hさんにお願いしました。 工事の日、私は午前中別な仕事を済ませ、Hさんたちよりも遅れて現場に向いました。 工事をする食品工場に入ると、周囲の機械、器具に汚れがつかないように、新品の大きなブルーシートが数枚掛けてありました。 そして溶接機や工具を整然と並べて、Hさんたちが仕事をしていました。お客さんは、「お宅の会社は、食品工場がどういう場所なのかよく承知した上で仕事をしてくれるから、本当に助かるよ」と、喜んでくださいました。私が事前にHさんへ細かい指示をしたわけではありません。何もいわれなくても、Hさんは当たり前のようにセッティングをして、どうすればお客さんが安心して仕事を託すことができるか分かっているのです。K社の社長から厳しい指摘を受けたり、辛い経験を重ねたりしているうちに、プロとしての自覚と技術が身についていく様子を確認することが出来ました。そして、入社1年目のSさんも当たり前のように、次の仕事に移る前にきれいに掃除と、養生を徹底している姿を見て、私は、(Hさんが我が社の「社風」を確立してくれた。そしてお客さんがそれを評価してくれている!)と感謝を覚えました。
 しかしその一方、Hさんには今でも、たまにおっちょこちょいだったり、また動揺したり、イレギュラーが起きたりすると判断力が弱まって、ミスをしてしまったり、仕事がはかどらなかったり・・・という欠点があります。その欠点がある故に、Hさんが客先の評価を下げて損をしている場面があります。Hさんだけでなく、私自身も、せっかくお客さんが「よろしく頼むよ!」と期待して会社に注文をくださるにも関わらず、私の打合せミスや勘違いで、私の指示通り職人は製作したにもかかわらず、結局客先の信頼を損ねてしまう・・・という場面もあります。 

 さて、8月は私たちの家庭に夏休みが与えられて普段とは違う生活をするときを持ちました。娘も、幼稚園に行くのではなく、家族と過ごす時間がほとんど全部となる状況で、親としてその期間をどう過ごすか、計画を立てる、選択をするという課題が与えられました。家族で行楽に出かけ、子どもたちが見知らぬ町で、見知らぬ人たちと触れ合い、そのことを通して子どもたちの良いところ、我が家に与えられている神の恵みを発見する機会が与えられ大変感謝いたしました。
 しかし、残念なことに行楽に出かけた明くる週の日曜日、娘は体調を崩し、礼拝に出ることが出来ませんでした。月末、家庭集会を通して示され、私たち夫婦が行った選択、判断や行動について反省・検証するときを夫婦で持ったときに、家内が「『子どもと深く関わりをもち、楽しませてあげたい』という理由を盾にして、結局は子どものコンディションを考えず、自分のやりたいことを押し通していたかもしれない」と言いました。また、夫である私にしてもらいたいこと、直してほしいことがあったり、また私の言動・行動に疑問があったにもかかわらず、夫婦で会話をして調整をする時間を惜しんで、家内がひとりでその場をしのいでいたことも私に打ち明けました。私は、その場その場、(大丈夫だろう、いけるんじゃないか?)とある意味高を括りながら、家内がそんなことを感じていることを知らずに責任者としてOKを出し続けていたことを反省しました。私は、会社、仕事において出た結果において責任を取らなければならないのと同じように、神から託された家庭を営むことにおいて責任を取らなければならないことを改めて示されました。Hさんは、失敗しながらもしがみついて「自らの売りは何か? お客さんに喜ばれることは何か?」ということを、私や周囲の人たちと会話をしながら、事実を確認、分析しながら追求し続け、今それが会社の社風の1つとなっています。同じように私たち夫婦は、自らの弱さを覚え、神のあわれみを請いつつも、「神に喜ばれるために、そして神の証人となるために」へりくだって神のみむねを知り、自分と隣人を分析し、話し合いながら、「家風」を確立していく。子どもたちが「神が喜ばれること」を自らも喜びとして、当たり前のように自然と取り組むことができるように、私たち夫婦は無関心・無意識が示されたなら是正し、目標をもって歩み、子どもを教育しなければならないこと、神にある宗教性・・・「家風」を築くために、歴史を重ね、代を重ねる大切さを示されたときでありました。

 8月、教えられたこと、経験したことを忘れずに、なお神の前に祈りつつ歩んでいきたく思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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