同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

遠征する教会

石井 和幸

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」マタイ7:21 

 9月のある日、山形にある家内の実家へ、石井 和幸家4人で出かけました。娘は、山形のおじいさんとおばあさんに会えることをとても喜んでいました。1泊2日で幸いな、楽しい交わりのときが与えられ、帰り際に娘は、「また山形のおばあちゃんのところに行きたい!」と言いました。娘は、山形のおじいさんとおばあさんが、心から愛してくれていることを実感していました。特に義母は、腰痛が治りかけであるにもかかわらず、運動会が間近にせまった娘が演じる「体操」に、いっしょに取り組んでいまし た。決して自分のペースで、ある意味出し入れをして娘と関わろうとしたのではなく、溢れる愛をもって、ときには体を張って関わって下さり、その気持ちと行動がしっかり娘に伝わった様子を私は見ながら、親である自らも子どもに対してそのように、全身全霊をもって愛さなければならないことを改めて覚えました。
 9月8日、教会野球部のメンバーは、礼拝後盛岡へフットサルの遠征に出かけました。
昨年9月、野球部イーグルス合宿の1日目として、盛岡聖書バプテスト教会とフットサルの試合をしました。今までサッカーとフットサルで負けたことがなかった我がチームが、初めて黒星を喫した試合でした。今年は合宿の日程が合わず、礼拝後、しかも夕方以降の時間帯しか体育館の予約が取れない という盛岡側の事情から、「対戦するとすれば日帰りにて遠征」という条件を、仙台教会野球部のメンバーが快く受け入れてくれるかどうか・・・という迷いが私にありました。しかし、主任牧師を始め、「やっぱり盛岡の教会にリベンジしたい」という思いをメンバーが表明して下さり、「是非、盛岡に行って勝とうじゃないか!」と思いを一つにして下さいました。何より、68歳になる私の父が、二つ返事で「ああ、もちろん(盛岡に)いくよ!」と答えたのには、とても感謝だったのと同時に、私も継承者として父の姿勢を見習わなければならないと思いました。
 よく、社会やスポーツの世界においても、「心を一つにする」ということばがよく使われます。その真価は、より困難な環境・状況において一 致がなされたときには、より一層評価されるものです。この世においてすらそうなのです。それが神の家族である教会において成されたら、どんなに素晴らしく、主に栄光を帰することができるでしょう。今回のフットサルによる交歓会では、その恵みを体験することが出来、大変感謝しました。盛岡聖書バプテスト教会の方々が、「今までに経験したことのない緊張感を常に体験した試合」と表現するほど、終始白熱した時間でした。私たちの教会は、延長戦の末敗れてしまい、リベンジを果たすことが出来ませんでした。そこに、その場で泣き崩れる若い兄弟の姿がありました。その姿を見ながら私は、本当に「教会が一体となって」遠征した事実を悟りました。と同時に、私が中学生・高校生の頃、聖泉連合の いくつかの教会に遠征をして野球の交歓会を持ち、その真剣さの故に悔しい思い、また楽しい思い、主にある交わりの素晴らしさを体験し、「また来年やりましょう!」と互いに言い合って帰途についたことを思い出しました。そして、当時と同じように今回、両教会から「また来年もぜひやりましょう!」という声が上がり、自分と同じように今の若い方々にもスポーツによる交歓会・遠征を通して、主の恵みをこれからも体験できることを嬉しく思い、神に感謝いたしました。
 野球も、サッカーもチームプレーのスポーツで、「自分だけ良ければうまくいく」ものではありません。真剣に事を成して勝とうとすれば、うわべだけの交わりではなく、ともに忍び合い、鍛錬、研鑚する必要が生じます。今回の遠 征は、フットサルのレギュラーだけではなく、その親や、先輩方、自分がプレーするわけではない方々も、思いを一つにして戦った姿がありました。それは、私がまだ中学生だった頃と変わらない営みです。「ともに戦う姿勢」が教会において継承されたからこそ今こうして私もこの営みのなかにあることを覚えました。自分自身、家庭生活・教会生活・社会生活においても、「ともに生きる、戦いをともにする」ということがお題目で終わってはいけない、自らもそこに真剣でいなければならないことを示された9月でした。神に対する姿勢を『真剣』なものにし、また、隣人に対して真実の営みをなし、私も神から与えられた荷を本当の意味で担うことに、祈りつつ取り組んでいきたく願っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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