同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

神の召し、神の愛に応える者として

石井 和幸

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ4:1〜3)

  主にある同労者の皆様、今年もよろしくお願い致します。今回は、昨年後半主によって示されたことを踏まえて、新しい年を歩む決意を告白しようと願っております。
 昨年10月、私たち夫婦は、教会で開かれる讃美伝道会における、「讃美のリクエスト」の締め切りを忘れたまま過ごしてしまう・・・ということがありました。「讃美伝道会」とは、誕生日、救いの記念日、結婚記念日・・・といった記念の塚を、讃美をもって教会一同で感謝し、私たちの教会にもたらされた真実の証しとメッセージが語られる伝道会の一つです。9月、10月は私たちの家庭にとって大切なときでありました。結婚記念日、家内と子ども2人の誕生日、私自身の救いの記念日・・・と、神の前に感謝をするときが多くありました。それにもかかわらず、いつのまにか関心が薄れ、リクエストの締め切りを1週間すぎてしまったことに夫婦で気づきませんでした。主日礼拝や定期集会に出席していたとしても、神から示されるメッセージを受け止めて日々神を仰ぎ行動する実体がなければ、信仰に力はなく、讃美をもって神の恵みに応答する真実がなければ、「神を信じている」と口では言いつつも、結局神を侮っていること、そういう自分達の姿勢を神より示され、悔い改めなければなりませんでした。黙ること、謹慎することに夫婦で身をおきながら、(私たちは本当に家庭において、「宗教」を営んでいたのだろうか?)と神に問われました。
 その後、教会の諸集会にて皆さんの赤裸々な証しと讃美を伺いながら、「宗教」とは日々の生活からかけ離れたものではなく、神を真実に仰いで日々歩む姿であることを悟りました。それと同時に、今までの自分の態度が、高慢で、これみよがしであったことを反省しました。
 私は、自分の弱さを棚上げにする傾向があります。自分の得手とするところで、弱さを覆い隠そうとするのです。本当は涙ながらに負わなければならない十字架を、自分の都合のいい解釈で勝手に軽くしてしまいます。それは、神に対する「謙遜」ではなくて、「侮り」であることがはっきり示されました。そして、夫婦で取り組むべき問題を曖昧にし、棚上げにしてしまい、「悔しさ・葛藤」を家長である私が麻痺させている現状を示されました。家内は、目標に対しての取り組みが自らの弱さのゆえに結果が伴わないときに、「悔しさ」をあらわすようになりました。私は、家内が悔し泣きをしている姿をみて、私自身、「悔しい」という思いをここ数年ずっと抱いていなかったことに気付きました。私は家内が抱いた「悔しさ」をごまかさないでそのまま自分の「悔しさ」「痛み」としなければならないのです・・・。
 年末、そのような状況の中でしたが、教会学校クリスマス祝会にて、子どもたちが皆さんの前で元気な姿で劇やお遊戯、讃美することができました。私たち夫婦が不備だらけの歩みだったにも関わらず、2人の子どもが主の前に立つことができたのは、教会で多くの関わりをもってくださった先生方、兄弟姉妹のご労とお祈りがあってのことであることを覚え、本当に感謝しております。そしてそのご労とお祈りは、神の召し、神の愛に対する応答であることを覚えました。私は、「私は弱く小さき者ですからこの十字架は遠慮します」と言う者ではなく、兄弟姉妹と同じように、神の愛と憐れみに応えていく者でありたく思っております。
 子どもは年ごとに成長を与えられています。また、新しい年からは私の職場において新体制が始まります。困難と不安があっても、主なる神の召しにふさわしく歩み、主が勝利を与えてくださることを信じて、愛する隣人とともに祈りつつ励みたく思っております。

 「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)