同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 眠りから覚める時刻 —

齊藤 望

「あなた方は、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りから覚める時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」(ローマ13:12)

 今年も三ケ月が慌ただしく過ぎ、日々の生活に追いまくられているように感じています。
冒頭の聖句を導かれ今年も歩み始めました。信仰生活の中で、今がどのような時で何をすべきかを思いながら歩むことを目標としてきましたが、昨年よりイエス・キリストとともに十字架刑となった二人の強盗が言った言葉「お前は神をも恐れないのか」と「あなたはキリストではないか」に心が留まっておりました。
普段の祈りで神に求めている自分の中に「あなたはキリストではないか」ほど強くはありませんが、神は私の願いを聞いてくださると信じ、自分の考えや行いを神のご計画よりも優先して願っている姿を見ることがありました。
特に教会より離れている子供の問題については「ああしてください、こうしてください。」と一方的に自分の良いと思われることを祈り、神と交流することなく神のみ旨を伺うことがなかったように思います。
祈りの時にこの件は神がはたらいてくださるという安心感がなく、幾度も同じ祈りを繰り返し、神は全能な方であるからきっとうまくいくと考えている姿はまさに「お前は神をも恐れないのか」と言われた強盗と同じではないかと気づかされました。
「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とへブルの手紙には書かれています。我儘な祈りには保証も確信もなく祈っても祈っても聞かれているという実感がなく、神がはたらいてくださるはずであるというような淡い期待と不安がいつもありました。
それは信仰というものではなく、「あなたはキリストではないか」といつの間にか思っている自分の思い上がった神に対する姿勢でした。
今月になって講壇より語られた説教で黙示録中のラオデキヤの教会に告げられた「わたしは、あなたの行為を知っている。あなたは、冷たくもなく、,熱くもない.わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」の聖句が開かれ、自分の信仰がどのようなものかを再考する機会が与えられ感謝しました。
行いが熱いか冷たいかであってほしいと願われたラオデキヤの教会と同様に自分の行いについて思い起こした時に熱くも冷たくもなくそこには冷めた自分がいることがわかりました。
それは行いのみならず、信仰、祈り、訓練の中においても見られたことでした。
漫然と信仰生活を送る、そこには信仰の基準の曖昧さがあったり、祈りの中に心がなかったりと形は信仰者のようですがその実は抜け殻のようでした。しかしそのことは自分が疲弊しているのだと思い違いをしていることに気が付きませんでした。
説教を通して訓練の中に生きることは忍耐が必要であり、信仰に生きることは行うことであることが教えられました。
「あなたがたが眠りから覚める時刻がもう来ています。」と今年与えられた聖句の通りに目覚めて訓練の中に励み行なうものとして立ち上がっていきます。

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(へブル10:35-36)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)