同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 年を取るということ —

茂永 進

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」
(詩篇 62:1)

 共に信仰生活を歩んでいます母が、昨年後半より教会の礼拝、諸集会へ出席出来なくなりました。数年前から歯をはじめとして体の不調を訴えるようになり、体力・気力ともに衰えてしまったことによります。元気だった頃の母は、お証の集会があれば真っ先に席を立って滔々と感謝のお証をしたり、教会の伝道活動においても積極的に自身の信仰姿勢をアピールする人でした。
 私が高校2年生の頃、神の救いに導かれる時に、母の信仰による励ましの言葉によって、神の前に押し出されるきっかけとなったことも思い出されます。
 何故、こんなに母は霊的に落ち込んでしまったのだろうと当初は悲観するだけの私でしたが、母の姿を目の当たりにしながら、年を取ることについて考える時を与えられています。
 信仰者の霊性は年を取り、気力・体力が減退すればそれとともに落ち込んでいくものなのだと思います。それでは、どのように年を取っても霊性を保てるようにしていけばいいのか。
 私も今は40代半ばを目前にして、働き盛りの時を日々過ごしています。仕事は年々忙しくなり、礼拝以外の集会に最初から出席出来る時が無くなってきています。家内には「集会における嘉納先生のメッセージが聞けないのは本当に残念なことだわ。」と言われることも多くなりました。家庭における霊的な営みは、礼拝だけではなく、諸集会によるメッセージからも養われる大切なものであることを実感しています。一足飛びに解決出来ることではありませんが、あきらめることなく集会出席が守られることを神に待ち望む姿勢を持ち続けていきます。また、忙しさのゆえに愛する隣人との関わりを怠らずに、相手に時間を割いていかなくてはなりません。年を取って弱くなっても、霊性を保ち、受けるより与えることが本当に幸いである愛の心を私のものとしていけるように、今の私の年齢から積み重ねていこうと思います。なお、弱っている母の為に霊的な回復と再び教会へ行くことが出来るようにお祈りいただきたく願っています。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)