同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 雑巾がけ —

山田 行

 「イエスは・・・夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って、腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」(ヨハネ13:4、5)

 8月14日、昨年天に召された義母の納骨をしました。暑い中ではありましたが、式には東京から義妹の家族も加わり、教会の先生方もご一家で参列して下さり、美しいバラの献花や、姪による義母の愛唱歌のサックス演奏が用意されて、とても感謝な式となりました。牧師先生のメッセージと祈りによって遺された私たち家族も慰められ励まされて前に進む力を与えられました。義母の霊は肉体から離れて神の御許へ行きましたが、天からこの光景を見て喜んでいる笑顔が思い浮かびました。私の心の中にも「お義母さん良かったですね」との思いと感謝が溢れました。
 家に帰り、ずっと義母が生活していたままにしていた部屋をようやくふん切りがついて、家族みんなで片付けました。全てが思い出のものですので、整理をし、処分をするのにも大きな力が必要でした。私は義母が毎日使っていたバケツと雑巾を見るたびに、雑巾がけを最後の最後までしていた姿を思い出します。脳出血の後遺症で手も足も不自由な義母に「モップなどで掃除をしたほうが楽では?」と買って来てはみたのですが、義母は「私はこうやって床に這いつくばって雑巾で愛情を込めて拭くのが大好きなのよ。このほうが綺麗になるし、何よりこの家を大切にしている気持ちになれるから」と言っていました。一昨年の東日本大震災の時も丁度雑巾がけをしていたそうで、危険を防ぐために義母がテーブルの下に移動したのではなく、丁度一緒にいた高校生の息子が、テーブルを、床に這いつくばって動けずにいた義母の上に移動させて、二人で揺れが収まるのを待ったそうです。その場所は義母の住む離れではなく、母屋の食堂でした。義母は自分の部屋だけでなく母屋の居間なども全部拭いてくれていました。子供たちが汚した食べこぼしや、時々落ちている砂や、以前飼っていた猫の汚い足跡など、私が仕事に出ている時に黙っていつもやってくれていました。
 私も雑巾がけをするようになって、膝をついて這いつくばって見えることは、立っていては見えない、気が付かない汚れでした。恥ずかしい話ですが、部屋の隅に黴や蜘蛛の巣があっても、立っている時には気付かなかったのです。義母はいつも這いつくばって、家族のためにこの汚いところを雑巾がけし続けてくれたのだな、とつくづく思いました。
 冒頭の御言葉はイエス・キリストが最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた記事です。神の御子であられる方が膝をついて弟子たちの足を洗って下さったのです。その姿勢でないと見えない弟子たちの足の様子。漁師だったペテロの足は古傷があったり、ごつごつ骨が出ていたかも知れません。こびりついた汚れなど彼らの労苦も足に出ていたことでしょう。キリストはへりくだって豊かな愛情を持ってその足を優しく洗ってくださったことと思います。
 心の目の位置も低く下げてみて、初めて見えるものがあるのではないでしょうか。へりくだって人に仕えてみて、初めて感じることが出来る、人の悲しみ苦しみ労苦があるのではないかと思います。膝をついて、這いつくばって、一生懸命愛情を持って心を寄り添わせ、キリストのように神に従い人にも仕えながら歩む者とさせていただきたく願います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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