同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 父の召天 —

石井 ミワ

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
(マタイ6:33)

 昨年12月24日の夜、実の父が召されました。クリスマスイブ礼拝で司会の働きを終え、さあ帰ろうかという時になって教会で倒れ、そのまま天に召されたとのことでした。父は、信仰の馳せ場を一直線に駆け抜けたというわけではなく、こけつまろびつ、時には逆走したりしながらの信仰生活ではありましたが、初代の牧師からの「山形教会を頼みます」という一言を覚え続け、かじりつくように教会に居続けて、最後まで神の前に座していたことであります。
 父との思い出は数え上げればきりがありません。随分と家族ででかけ、那須で遭難しかけたり、地引き網の体験をしたり、浜辺でのキャンプ・・・と、普通の人がしないような体験を本当にたくさんさせてもらったと思います。そういう積み重ねもあって、結構大変なことが起こっても、なんとかなるもんだなと、教わったように思います。冬になると天気をみては蔵王に出かけ、スキーを教えてくれたのも父でありました。ロープ塔で転んでいた運動音痴な私でしたから、滑れるようになるまで教えるのは根気がいったことだろうと思いますが、休みとなると子ども三人を連れてよくスキーに行ってくれました。私の学生時代は、私も父も、我が強い方でしたし、「そんな無茶な!」と思うようなことも結構ありましたから、随分と私は父とぶつかったものでした。しかし社会人となり、父と仕事を共にするようになって、実はすごいんだなぁと思う事もありました。また、私も親になって気づいたことは、不器用ではありましたが、とても家族を愛してくれていた父だったなぁということでした。
 自分の弱さを抱えてもがき、戦いながら生きた父ですが、ここのところ変わってきた、と、弟から聞いて、あぁ良かったなぁと思っていました。教会においても、小さな教会でしたし、昨年から専任牧師がいない状況でしたから、様々な奉仕を買って出ていました。ここ最近は父が礼拝や祈祷会で奨励をすることも多くあったようです。
 そんな中で急に召されたことは、私も心揺るがされ、困惑したことでありますが、今は、「神のあわれみによって、時が与えられたのだ」と思っています。クリスマスイブまで教会に仕え、礼拝の司会を勤め上げ、教会で召されたことは、父にとって最高の取り分であったろうと思いました。残された私たちに「いろいろあったけれど、最後に天国のゴールテープを切ってイエス様のおそばに置いていただいたのだ」と確信が与えられて、愛する方々とともに父の葬りに携わることができ、慰めをくださる神と、私と遺族のために祈ってくださった愛する方々に今も感謝を覚えることであります。
 葬儀の次の日は日曜日でありました。山形教会では父が奨励の当務でしたから、お休みにしようという話になりましたが、急遽主人が代行を申し出て、礼拝を守ることが許されたことも神のあわれみであったろうと思います。伯母や叔父の家族も参加して、通常よりも出席者の多い礼拝でありました。
 私たち家族のことを、とりわけ孫である私の娘や息子のことを気にかけて愛してくれた父でありました。
 天に凱旋した父の背中を追って、私も尚、神の前に歩んでいきたく願っております。

(盛岡聖泉キリスト教会 会員)