同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 喜ぶ者と共に —

山田 大

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」
(ローマ12:15)

 若い頃よく聞いた教会の先輩方のお証しでは、救われた時嬉しくて嬉しくて家まで飛び跳ねながら帰った等、感情の高揚が強く伝わってくるものが多かったように思います。
 若い頃、メッセージや信仰書の中で、若い信仰者は感情の高まりが薄れると信仰まで失われてしまったかのように悩む場合があるので注意しなくてはならない、と教えられました。
 愛についても同様に、感情ではなく意志であり、御言葉にあるように「行いと真実」がなくてはならないものです。
 最近、私たちの教会では若い兄姉の結婚という大きなことがありました。素敵な招待状をいただき、その中に例によって出欠確認の返信ハガキが入っていました。教会でいつも会っているので、その時にお渡しすればいいのですが、せっかく切手が貼ってあるので、投函しようと思い、さらにせっかく郵送するのだから、ただ「おめでとう」だけでなく何か心のこもったメッセージを書き添えようと思いました。色々考えましたが、結局「永遠の愛を何故誓えるのか、お二人で考えてみましょう」と書いてみました。教会で語られるメッセージをきちんと総合することが出来れば、答えは難しくないと思います。もし愛の本質が感情ならば、どんな時も一生変わらないことを約束するのは不可能と言っても過言ではないでしょう。しかし、意志ならばそれが可能なものとなります。
 そのように私たち信仰者は、愛や信仰の本質が感情のように移り変わるものに依拠するべきでない、ということを根本に置いておかねばならないと思います。
 
 しかし一方で、冒頭の御言葉にあるように信仰生活の動機の部分には喜びや悲しみといった感情がしばしば関わって来ることも確かです。
 先日、牧師先生のお話の中に、しばらく前、教会でスキーに行った時のことが語られていました。もうそろそろ終わりにしようと思っていたところに、若い兄弟がもう1回登って行って滑りたいから誰か一緒に行ってくれませんか、と同行の人々に声をかけていたとのことでした。先生は、体はしんどいけれども、今彼と一緒に滑れば、いつか彼がこの時のことを思い出してくれるかも知れないと思い、彼と一緒に登っていった、という内容でした。その話を聞いた時、私もかつて先生に、悲しい時、苦しい時に共に寄り添っていただき、そこを乗り越えてさせていただいて来たことを思い出しました。そして、私も同じようにしようと思わされ、わずかで小さな働きではありますが、兄弟姉妹が助けを必要としておられる時、その破れの狭間にに立たせていただきました。
 私たち信仰者に神が信仰の現場の中心としてお与えくださった教会の中で、小さくとも破れの狭間に立つ一つ一つの営みの積み重ねによって、たましいの救いへと繋がっていく神の御業を幾度も見させていただきました。

 以上のようなことを信徒説教で語らせていただいた矢先、3月の聖書を学ぶ会では、夫婦の様々な取り組みと積み重ねについて、非常に深い部分にまで語られていましたし、前述の若い兄姉の結婚式では、式辞の中で、愛は人の意志というような不確定なものだけでなく、神の御手に委ねる営みの中で積み重ねられていかなくてはならない、という内容のことが語られていました。
 まだまだ自らの思いの至らなさに気づかされる日々です。教会の中では表舞台に立つことこそ減りましたが、目立たずとも担うべき部分が多く示される年齢となって来ています。いよいよ謙って歩ませていただきたく願っております。

(盛岡聖泉キリスト教会 会員)