同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(11) —

「「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」・・・・ すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
(ヘブル12:5-6、11)

 前回の掲載記事のつづきとお考えください。
 結婚し子どもが与えられました。私たち夫婦は、子どもたちが献身し、教会の働き人となることを願いました。私が果たさなかったことであり、また家内にとってもそうなのでした。家内は高校生の時、宣教師になるつもりでした。当時受け入れ側の国々で、だんだん宣教師を受け入れなくなってきていたため、医療関係者となり、医療の仕事をしながら宣教に携わるという方策が考えられていました。家内もそれにそって、薬剤師となりそこに加わるつもりで薬科大に進みました。けれども体が弱かったので、牧師に「あなたの体では宣教師はつとまりません」と止められ、それを断念したのでした。
 小さいときは大変よい子どもたちで、自分も神のご用に進むつもりでした。けれども年齢が上がるにつれて問題が生じてきました。娘二人ですが、下の子は中学1年ころから心に問題を感じたので、真正面から取り組むことを控えました。上の子は大学2年の時、教会には行かないと言い出しました。彼女の二十歳の誕生日に、「あなたは大人になった。もし教会にいかないなら、この家には置かない。大学をやめ、ここを出て行って自分で働いて生活しなさい。」といって家から追放しました。
娘の二十歳の誕生日、赤飯を炊き、晴れ着を着せ、みんなで記念写真をとるのが世の常でしょう。どんなにかそうしてやりたかったことでしょう。
教会にいかなくなると、救われて信仰者となることは、ほとんどなくなります。強制され、しかたなくてでも、教会の席に座り続けた方が望みがあります。
 彼女は家をでて自分でアパートを借り、アルバイトで生計をたて、大学もやめませんでした。アルバイトでは生活費を稼ぐのが精一杯で、大学の学費を滞納しました。それで大学の先生の知るところとなり、その方が仲介に入って、彼女は教会にいくことを承知し、家に戻りました。
 大学を卒業し、就職してしばらく後、自分でアパートを借りてすむようになりました。教会への出席はつづけましたが、やがて、キリスト者でない、ある男と結婚したいといいだしました。私たち夫婦はもちろんそれを認めませんでした。当然いろいろのことがありましたが、結局その男と遠方にいって結婚し、その後その男の実家で暮らしていました。
 私の教会に、彼女のために労してくださった方がいまして、その方が教会の特別伝道会に彼女たち夫婦を呼んでくださり、そのとき彼女は心からの悔い改めをしました。それで私は、その悔い改めを受け入れて彼女との関係を修復しました。
 子どもに関する取り組みもそのようにすすんでから、その間私自身すっかり忘れていた一事を、あざやかに思い出しました。神が思い出させなさったといっても間違いないかもしれません。
先にお話しましたように、結婚の問題を神にお委ねします、といっては次の瞬間、それができない、ということを繰り返しているときでした。
私は神にこう申し上げました。つぶやいた(不満の意味で)といった方がいいかもしれません。
「神よ。このことを私は諦めますが、きっとほかの人はそうしないでしょう。」と。
そのとき、神は、
「言ったね。」
とだけ言われました。
時が経ってわかったことは、私のつぶやいた「ほかのひと」は自分の娘たちに他なりませんでした。神が助けを控えられたことを知りました。人が救われることにも、よい選択をすることにも、神の助けが必要です。
私は自分が神に愛されて人生を送ることを許されてきたし、今もそうであると思っています。
それで、ダビデを連想するのです。ダビデは神に愛されたことは疑いの余地がありませんが、「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。」(Ⅱサム12:10)と言われた神のことばは撤回されませんでした。
 ここに書くのは、かつての私と同じように、つかんで放さないものをもっている方々への勧めです。速やかに御心に従って生きることを始められますように。ながくそれを続けると、皆さんも何かの失敗をしでかすことになります。
神にではなく牧師につぶやいてその結果があらわれた方の実例を私は知っています。なんかの折りに先生が、ある兄弟にこれこれのことを、子どもさんのことでこう勧めたのだけど、ふふん、という感じで、勧めを退けられて、「言ったね。」と思ったんだよ、といっておられました。キリスト者として、子どもが信仰を持たないことは、その子を失ったことに他なりませんが、その方はそうしてその子を失いました。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)
 アブラハムは「サラの言うことを受け入れなさい。」と神に言われ「翌朝早く・・・彼女(ハガル)を送り出した。」(創世記21:14)アブラハムの模範は、イサクを献げた時だけではありませんでした。きっと生涯にわたってそうであったことであろう。