同労者

キリスト教—信徒の志す—

証し

— 聖書通読60年の感謝 —

野澤 睦雄

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」(エレミヤ書 15:16)

 私が聖書通読をはじめてから60年経ちました。その間、毎年聖書全巻を読めなかったことはありません。私が救いの恵み与ったとき、「読書百遍意自ずから通ず」は聖書のことばではないけど真実、といってせっせと聖書を読んでいる兄弟がいました。その影響というわけではありませんが、私も救われるとすぐに聖書を読みはじめました。最初の年は救われたあとその年の残り半年の間に3回も聖書全巻を読んだのです。
5年前に聖書通読55年という題で本誌に証しを書いています。それから5年積み重ねることができました。更にその前2005年11月にも「みことばへの情熱」という題で、聖書通読をしてきた証を書きましたが、その時はあと1月で46年でした。
 60年も読み続けることができたことは感謝というほかありません。
 なぜ読めたか、それは「聖書を読みたいから」で、誰かが勧めるからでも、決まりだからでも、律法のようになっているからでもありません。「みことばへの情熱」と題して書いたときも述べましたが、その情熱を60年経ったいまも失せることなく保っているということです。
 病気をしても、会社や家庭や様々な社会的事情ででも、時を確保できなければ読めなくなります。病気はしませんでしたが、時の確保には工夫が必要な時もありました。教会の集会に欠かさず出席している皆さんは、集会にでるため時間を確保する工夫をしておられることでしょうから、聖書通読も同じようにしているといえばご理解頂けるでしょう。
 教会の集会に出席すること、自分で聖書を読み祈る時を持つこと、献げること、様々な教会の活動をすること、また教会の働きとして広く世の中に尽くすこと、等々が神の恵みに与るための「恩寵の手段」と呼ばれていますが、聖書通読は私にとってまことに恩寵の手段でした。
 他のひとはさておき、聖書を読んで祈りの時を持たなかった自分とそれをやりつづけた自分を比較すればその差は歴然です。
聖書を読まないよりも読んだ方がより神のみ心を知り、読まないよりも読んだ方が神に近く歩めたに決まっています。
 讃美歌「アメイジング・グレイス」の中に「危険をもわなをも避け得たるは、恵みの御業と言うほかなし」と歌われています。振り返って見るとき、この歌詞のように、人生の破綻になりそうなことが多くありましたが、聖書通読が守られる恵みを頂く手段のうちのひとつとなりました。
(仙台聖泉キリスト教会会員)