同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 父を偲んで —

山田 行


「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」(ヤコブ 1:25)

 父が天に召されて一年が過ぎました。未だに「父と母を今日も守ってください」と祈ってしまう自分にハッとさせられています。父が召された時、親戚や友人から「あなたはお父さん子だったから悲しいでしょう」と言われたことがよくありました。確かに私は子供の時から本当に父が大好きでした。温かくて、強くて、面白くて、いつも私の話を聞いてくれて、どんな時でも私を守って助けてくれました。一方で、私が平気で嘘をついたり自己中心的な思いで家族や教会の人たちを蔑ろにした時などは父の怒りに触れ、大好きな父であっても恐怖で側に近寄れないほどでした。私はいけないことをしたのだ、と子供心にも強く示してくれました。父は「あなたは罪人である」とはっきり教えてくれたのです。そしてそれは神がお嫌いになることで、そのままにしていてはいけない事、きちんと謝らなくては父とのそして神との良い関係が元に戻らないことを教えてくれたのです。
 それなのに私は大人になるにつれて、良い人間になるための表面的な努力やうわべを取り繕うことに心を用い、それが空しいことで真実では無いことに気づくと、最後には開き直って自分だけ良ければそれでいいと考えるような者になっていました。
しかし神は一方的な憐みによって、そんな私を捉えてくださり、神の前に罪を悔い改め十字架の血潮によって赦されるという幸いを与えてくださいました。父は牧師ですから、私の悔い改めは父による導きと祈りによって行われました。その時父は「この日を待っていたよ」とにっこり笑って私の手を握ってくれました。
 その後の私の人生にも父はいつも共に歩んでくれました。結婚、出産を経て、与えられた私の家族の喜びの時も辛い時も父は共に祈り励ましてくれました。いつも変わらず神を信頼し続ける父の姿を通して、神は生きて働いて下さることを私たち家族も知ることが出来ました。
 私の信仰が弱い時には「信仰が弱らないように伝道しなさい。人と関わって自分の言葉と行動で導いて行きなさい」と励ましてくれました。私はその言葉に従って、隣人のために真剣に祈り、相手のことを考えてどうすれば神を信じてもらえるのか、教会に来てもらえるのかなど日々考えて取り組んでみました。そしてついにその人が救いを与えられた時に本当の意味で父の言葉の意味がわかったように思いました。
 父の姿を通して、福音のために行動していかなければ自分の信仰も弱ってしまうので働き続けることが大切だということを教えられました。父は天に召される直前まで多くの人に声をかけ教会に来なさいと伝道していました。それはその魂を愛する思いと共に、自分自身の信仰も年を経ても弱らず神の御前に真実に立ち続けたいという願いが込められていたのだと思います。
 私は今年、私たちの教会に与えられた伝道所の管理者として立たせていただいております。それは私にとっては思いもよらない出来事でした。しかし父が最後まで雄々しく伝道をしていたことを思う時に、この小さな家族が用いられて福音の業がこの場所で続けられるようにへりくだって歩んでいきたいと思います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)