同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 一つの願い —

山田 行

「私は一つのことを【主】に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇 27:4)

 私は牧師の子供として生まれました。母はいつも私たち子供たちに「神様はいつもあなたを見ているよ。側にいてくださっているよ。」とか「神様を悲しませないようにね。」とか、まるで私たちの家庭にもう1人神という人格が一緒に住んでいるかのように育ててくれました。小さな時からそのような中にいたので、神が人格をもって私たちを愛してくださることには疑問を持ちませんでした。それから成長し色々な出来事を経験し、自分の罪の問題や、弱さのゆえに神から何度も離れ、無視をし、ばかにするような愚かな者に成り下がっていました。けれどもこんな私を神は捉えてくださって、一方的な哀れみのゆえに罪を許し、もう一度小さな時に感じていた人格者である神の温かさ、安心感を感じることを許してくださったのです。
 いつも思い出だすことは、自分の罪にどうしようもない悲しみと苦しさを抱えながら、いつも心は虚しかった頃の辛さ、人をねたみ、悲しませ、自分の思うようにならないのは、回りの人々、環境が悪いからと悪態をついた自分の醜い姿です。私はやはり一つの願いをするならば、上記の御言葉のように「わたしもいのちが続く限り、主の側にいさせてください。」と願います。このような私を喜んでくださる主、愛してくださる主の側に辛い時も、悲しい時も、不安の中にいる時もそして嬉しい時も生まれた時からずっと側にいてくださった主から離れないようにと願います。現実は厳しい問題や課題があったり戦いは激しいことですが、主の家は教会であって、そこは神様からのメッセージが豊かに語られて、そこへ世から逃げるように帰ることが出来ます。そして神との関係をより深く知らせていただき平安を与えられます。本当に感謝なことです。
 私にも愛する子供たちや教会のなかにいる若い方々に、また神を知らない人たちに、主の側にいることが何よりも価値高く、すばらしいことである事を証し続けたいと願います。私たちの取り巻く、目に見える様々な世のいう名誉、自由、快楽にほんろうされ更にしがらみにがんじがらめにされて主の側で生きる価値をどんどん下げて、迷いやすく間違えやすい私たちを思います。しかし自分の罪をきちんと神様に赦していただいて、愛の関係にきちんともどしていただくことのすばらしさを日々祈って子供たちにも私と同じ「一つの尊い願い」を神に与えられるようにと願っています。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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