同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 無駄の無い人生 —

山田 行

「私の愛する兄弟たちよ。堅くたって、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(Iコリント 15:58)

 今不況といわれる時代、私たちは「無駄」ということに敏感になっていると思います。政治でいう税金の無駄使い、企業の無駄を極力抑えた事業をする、家庭においても無駄な出費はできるだけ出さないようにと、ほとんどのメディアは私たちに「無駄」というものがあまり良くないものというような発信をしてきます。しかし、片方では無駄と思われることが大きなビジネスになりそれが豊かな生活?や安らぎや潤いと言わせることも多いと思います。
 ある時仕事場で同僚に「木曜日の夜は教会で、日曜日は朝から教会で、火曜日の夜も教会で、疲れませんか?」と平日の集会がある仕事の時はばたばたと急いで(焦って)帰る私に言ってきました。きっと「よくやりますね」というような呆れた感じで言っているのだと思いました。「疲れる時もあるけどね、これが私のライフワークだから。」などと答えました。その他伝道会の音楽の御用の練習や、話し合いなど多くの時間や労力、経済も動きます。教会に新しく来てくれる人があることを願って、また教会の中にいる若い、幼い、子供たちに救いを伝えたいと、しかし目に見える実りはわずかでいつの間にか、そのことが心に引っかかりのように、私たちのやり方がまずかったかな?とか、このようなことを繰り返していて伝わるだろうか?とか色々な迷いがでてきます。目に見えるものでふりまわされ、まるで無駄なことを必死でしているかのような思いが出てくるのです。
 これが弱い私1人でやっていたならきっとすぐにねを上げてしまうことだと思います。伝道は水の上にパンを投げるようなものです。と言われるほど無駄に見える行為なのでしょう。しかし、私たちに与えられている教会の人たち(同労者)と祈り励ましあい支え合っているからこそ、また立ち上がる力と勇気、希望が与えられます。これこそ神が与えてくださる教会の力であり集いの尊さとその中で育まれる幸いであります。そして目に見えない神からの豊かな平安と、神への感謝に気付くのです。
 自分の人生を振り返ったときに神は私たちの労苦をむだになさることはないと御言葉を通して励ましてくださいます。だから「神の国とその義とをまず求めなさい」そのあとに私たちの必要と願いを神は供えてくださることを信じて変わることなく動かされることなく主のわざに励みたいと願います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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