同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 何から学ぶのか? —

山田 行

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」
(へブル5:8)

 今月は車の免許の更新に免許センターに行きました。私はもう何年も車の運転はしていない立派なペーパードライバーです。でもいつか免許証が必要な時が来ると良いなと思い5年ごとの更新をしました。免許証の写真は5年前の自分の顔で「この時は何をして、何を考えていたのかな?」などと思い巡らします。
 子育てをし、家族に仕え、仕事をし、教会生活を中心に無我夢中で生きてきました。5年前は、年を経れば少しは人生の色々な事がわかったり、信仰生活も長くなるのですから、人としてゆとりがあって、また良い知恵、経験の豊かさなどを回りの人に語れるようになりたいと思っていました。しかし現実は、あまり変化はなく何が分かったかというと人が生きていくことは本当に大変なことなのだということです。 困難や悲しみや苦労が無くなる時はありませんし重い責任や多くの人との関わり合いにがんじがらめになったり、経済を生み出す戦いも厳しさを増すばかりです。しかし聖書はキリストの生涯を驚くほどに表して、私に語ってくださいます。
 まず神の御子であられる方が、苦しみを教師として学んでおられたことです。人は世の成功者と呼ばれる人々からインタビューをしたりしています。「人並み以上の苦労をしてきました。とか地獄から這い上がってここまで来たのです。」などという人が大勢います。世のいう苦労と、キリストが受けた苦しみの大きな違いは、誰のための苦労なのか 何のために困難の中に立ち続けたかの目標点です。十字架の死、それはキリスト御自身の幸い、成功ではなく人間の考えには到底及ばない従順の愛の姿であります。神のご計画を全うするために立ち続け、私たちの罪を贖うためという目標に従うために人としての苦しみを受け続けてくださいました。
 私たちは苦労を何のために受けようとするのでしょうか、いつまでも自分が良くなるためにここで頑張るんだ、ではなく主のご計画を進めるために受ける苦しみを受けたいと思います。小さな十字架を担わせていただいてはじめて十字架の真理 慰め 希望を知る事が出来ます。ものすごい価値のある、世のものと何も比較できない神の愛を知ることが出来るのです。 そのためにも多くの苦労や、困難を歩むことと思います。その姿を近くで子供たちは見ているということを忘れないで、逃げないで戦い続け学びたいと思います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

Valid XHTML 1.0 Strict