巻頭言
— 神の最善 —
齋藤 優子
「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」
(詩篇107:8-9)
今年も早、上半期を過ぎ下半期へと移りゆく中で、試みの中を歩んでいるものでしたが、神の励ましと慰めによって、神の慈しみと恵みとが多く与えられたことを感謝しています。
私にとって、二男が不信者の娘さんと結婚し教会を離れていってしまったという問題は、大きな試みでした。今年の初めから、私はその思いにとらわれ身動きがとれず、神はどこにいらっしゃるのかさえ探っているような状態の中にあったことです。そういう思いにとりつかれてしまう時に、人は身動きがとれなくなりメッセージでも語られておりましたが、その現実においてのしがらみや固定観念、思いというものが心を支配してしまい、神からの福音から一番遠くにいるんだということを教えられました。
このことにおいては教会の先生や教会の方々には多くの心配をしていただき、また祈っていただいたことを感謝しております。そのとき山本和子先生とお話する機会が与えられ、アブラハムがイサクを捧げたところを通して“試みの中にいる時こそ神を畏れていく”ことを語っていただきました。
主人から言われたことは、“あなた一人が悲しみを背負っているのではなく側にいる長男そして娘も同じように共に背負っていることを忘れないで欲しい”ということでした。私はその時、はっと気づかさせられ自分の思いばかりに目を向けていたことを恥ずかしく思いました。そして、二男のことは神の憐れみに委ね、親である私たち夫婦と一緒に同じ信仰の道を歩んでくれているこの子共たちを守っていかなければいけないという思いでした。
その時、私の心に讃美歌47番“わが友にますあがないぬし”の賛美が流れていました。特に3節の歌詞が心にとまり、神の御心を知らせていただきました。
堅き信もて縋り行かば
必ず見捨てたまわず
火の垣をもて我を囲み
マナもて養いたまわん
神の最善は、その時には何がいいのか分からないことが多くあるのですが、目には見えない神ですけれども、わたくしたちのためにいつもとりなして下さり、日々寄り添い、その御心をあらわしてくださる神がいらっしゃることを信じることができました。今は聖霊を通して神の前に自らを整えていくことを示されております。