同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ —

吉田 浅

 新しい年を迎え、皆さんはどのようなスタートをされたことでしょうか。  昨年私に与えられた御言葉は、「あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。」(ヨブ記8章7節)でした。個人の祈り課題は、①仕事が守られ②健康が守られるようにという2点をかかげさせていただき1年を歩ませていただきました。  仕事は昨年6月末日をもって定年となりましたが引き続き同じ職場で属託という形でとどまることになりました。職場との1年毎の契約となりますが、神様が示され時まで、務めさせていただきたいと願っています。  健康面については毎月定期的に病院に通院して検査をして、12月の検査データでは全て正常となりました。教会の兄姉の皆さんのとりなしのお祈り本当に感謝をしている所です。ありがとうございました。  私の家庭ではいつの頃からか、忘れましたが毎日朝と夕 短い時間ではありますが家庭礼拝を続けさせていただいています。先日も次のようなメッセージが語られました。

テーマ〈白髪になるまで〉
イザヤ46:3−4
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

ある学校でのお話です。病気が原因で足が不自由な、えみさんという女の子がいました。彼女が通う学校では、毎年のプール解禁日にクラス対抗水泳リレー大会をしています。各クラスから男女二名ずつが選ばれて、クラスの代表として泳ぐ競技です。彼女のクラスでもこの大会の出場選手を決めていたのですが、女子一名がどうしても決まりませんでした。 早く帰りたい友だちは、「この三年間、体育祭、水泳大会に一度も出ていない人がいる。最後の三年生なんだから、お前が選手になれ」と彼女に押し付けるように言いだしました。誰かがえみさんに味方すると思ったけれど、ここで何か言えば自分が代わりに泳がされると思い、みなが口をつぐんでいます。選ばれた男子も何も言いませんでした。そしてとうとう、泳げないえみさんが選手になってしまったのです。 彼女は家に帰り、お母さんに泣きながら訴えました。するとお母さんは、「あなたはこれから就職して、会社で何かできない仕事を言われたら、また泣いてわたしに相談するの?そしてお母さんがそのたびに会社に行って、うちの子にこんな仕事をさせないでくださいって言いに行くの?」とピシャリ。結局、えみさんは訴えを聞いてもらえませんでした。えみさんは部屋で泣きながら考え、二十五メートルを歩いて渡る決心をしたのです。その決心にお母さんは喜んで応援すると言ってくれました。 水泳大会の日、水中を歩くえみさんを見て、まわりからひやかしや笑い声が響きました。彼女はやっとプールの中ほどまで歩きました。しかしそれ以上、つらくてしんどくて歩けなくなってしまったのです。すると一人の男の人が背広を着たままでプールに飛び込み、えみさんの隣りのコースをいっしょに歩き始めたのです。よく見ると、それは校長先生でした。「何分かかってもいい。先生がいっしょに歩いてあげるから、ゴールまで歩きなさい。恥ずかしいことじゃない。自分の足で歩きなさい」そう言って励ましました。 一瞬にしてひやかしや笑い声は消え、みんなが声を出して彼女を応援し始めました。長い時間をかけて彼女が二十五メートルを歩き終わったとき、友達も先生も、みんな泣いていました。 神さまはいっしょに歩いてくださるお方です。それは、わたしたちが生まれたときからずっと。年をとっておじいさんやおばあさんになるまでずっとです。いつも離れることはありません。そして、倒れたり歩けなくなったりしても、神さまはわたしたちを背負ってくださると聖書は教えています。  日々、神様は私達の家族へメッセージをプレゼントして下さいます。先日も、長男が「家族っていいな」とポツリと語っていました。 新しい年の御言葉は「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。」(イザヤ35:3)です。  糖尿病の人の血管年齢は健康な人よりも10才老いているといわれています。そうなれば私の血管年齢は71才かもしれません。しかしながら神様は、聖書のことばを日々与えて下さり養って下さいます。「私は乏しいことがありません」とダビデが詩篇で告白しているように主に日々感謝をささげ歩ませていただきたいと願っています。

(盛岡聖泉キリスト教会 会員)