同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 立ち止まる —

山田 行

「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは明らかにされるためです。」(マルコ 4:21-22)

  今年も残り2ヶ月となりました。日々与えられた生活を夢中になって走ってきました。本当に月日が過ぎるのは早いものですね。
 しかし、ここまでの私の信仰生活の命の源は週ごとの礼拝のメッセージによって育まれてきました。この短い時間の中で神の前に立ち止まらせていただいて、自分自身に光を当てていただいています。
 上記の聖句の「あかり」は神のみ言葉であります。このあかりをどこに置くか? 私自身そのあかりをどうでも良いような扱いをして隠してしまうのか、それとも大切に目の前に置いて私の隠れた部分に光を当てていただくのか?ということであります。日々の色々な出来事ばかりに目を向けていると、この小さなあかりに気ずきもせずまたそれを隠れたところに平気で置きっぱなしにしてしまうことがあります。
 その光がどれほど大切で、すばらしい力があるにもかかわらずです。
 私も40代に入り自分のことを考える時に物事の考え方、やり方など、なかなか変えることが出来なく、これではいけないと思っても、また同じような弱さや、傾向性で物事を進めてしまったりします。
 自分の努力などで変わることは相当困難です。しかしこのあかりに照らされて私の隠れた弱さや、神の御心を教えていただくことによって、神にゆだねて、信頼し今やらなくてはいけないこと、今語らなくてはいけないことを教えていただいています。御言葉に生きることによって自分で選ぶ道ではなく神の導きの中を歩むことが出来たのです。
 どうしてこんなに長く信仰者が礼拝を大切にし生きているのでしょうか。神のあかりのすばらしさに涙し、感動し、喜びと勇気をそして希望を与えられているからでしょう。そして自分でも気が付かない自分を教えていただいているからだと思います。
 このあかりをきちんと燭台の上に置き続け、家族で大切にその光を囲みながら生きて行きたいと願います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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